映画や舞台などを鑑賞した感想文をアップして行きます。

2007/03/08

ボビー

 レイトショーを観ようと思い、映画館に向かった。実際のところ、レイトショーを観ると決めても、すぐには観たい映画を思いつくことができなかったのだが、レイトショーの開始時間と映画の紹介ページに書かれている内容を照らし合わせながら、予備知識もなく臨んだのがこの映画である。

 映画館に入ってみると、驚いたことに、観客が私を入れて三人しかいなかった。ひょっとして、人々の心を大きく揺さぶる映画ではなかったのかと、一瞬不安になったものの、映画が始まってみると、そんな心配は一気に吹き飛んだ。私はこの映画から、非常に多くのものを受け取ることができた。最も引き込まれたのは、映画の中の台詞である。一言で言うと、この映画はとてもスピリチュアルな映画だ。スピリチュアルな感覚が好きな人は、この映画の台詞に強く引き付けられることだろう。とにかく、一つ一つの台詞がとても深いのだ。私は、このような深い台詞を書いた脚本家がとても気になった。調べてみると、この映画の脚本は、この映画の監督である俳優のエミリオ・エステヴェスが手掛けているのだそうだ。私はこの俳優を良く知らないが、とにかくスピリチュアルで素晴らしい脚本だった。おかげで、映画を観終わったあとも、とてもいい映画を観たという満足感でいっぱいだった。

 この映画は、先に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の弟であるロバート・ケネディが暗殺される日に、暗殺現場となったアンバサダー・ホテルに居合わせた二十二人にスポットを当てたヒューマン・ドラマである。タイトルとなっている『ボビー』とは、ロバート・ケネディの愛称である。

 時代は一九六九年のアメリカである。ベトナム戦争の時代で、人種差別が深く根を下ろしている。登場人物は、アンソニー・ホプキンス演じるかつてのドアマン、金銭的に裕福な老夫婦、シャロン・ストーン演じるホテルの美容師、デミ・ムーア演じるアルコール依存症の歌手とその夫、ベトナム行きを回避するために結婚式を挙げる若いカップル、ドラッグでハイになっている若者たち、ホテルの厨房で働くメキシコ国籍の男性たちと、黒人の料理長などである。彼らが織り成すヒューマン・ドラマと、生前のロバート・ケネディの画像が巧みに繋げられている。当時を思わせるファッションや周りの雰囲気が、当時の画像と見事にマッチしている。個人的には、アメリカを代表するクラシックカメラが登場していたのが気になった。インスタマチックやアーガス、それから一六ミリカメラ(多分)などが、その時代の現役として活躍していた。

 ロバート・ケネディが政治活動を行っている映像が流れたとき、私はもう、映像を観ただけで、
「この人は政治家ではない」
と強く感じた。何だろう、この慈悲深い姿は。ロバート・ケネディは、貧困地区を視察し、その実像から目を背けることなく、そこで多くのものを受け取っていた。私はすぐに、現代の政治家を思い浮かべた。現代の政治家は、貧困地区を視察したりはしないのではないだろうか。ロバート・ケネディは、私が認識している政治家とは、顔の表情がまったく異なっていた。そして、気がついたのだ。私が政治家だと認識している人たちは皆、政治家という職業を演じている人だということに。政治家という職業を演じている人たちと、真に人の上に立つ人とは違うのだ。ロバート・ケネディは、真に人の上に立つ人だった。

 真に人の上に立つ人は慈悲深く、人種差別をしない。ロバート・ケネディは、国と国の違いを認めようと、政治演説の中で人々に訴えかけていた。力のこもったその政治演説に、彼の慈悲深さを感じて感動せずにはいられなかった。長い長い政治演説を、紙に書いた内容を読み上げるのではなく、自らの中から導き出しているという印象を受けた。そう、自発的に湧き上がって来るエネルギーを感じたのだ。ロバート・ケネディは、ベトナム戦争にも反対し、自分の国が平和でないのに、他の国に遠征すべきではないと訴えかけていた。真に人の上に立つ人は、政治演説をしても真実の言葉を使う。当時の彼の政治演説が大きなスクリーンに映し出されると、政治演説なのに、何故か聴いているだけで涙が出て来る。何故、涙が出て来るのだろう。何故ならそれが、真実の言葉だからである。

 アンバサダー・ホテルに居合わせた登場人物の中に、金銭的に裕福な老夫婦がいた。六十代後半と思われる老人には持病がある。ホテルの部屋でくつろいでいるとき、彼は長年連れ添った奥さんの目をじっと見つめ、
「君の服や靴ではなく、君の存在が愛しい」
と言う。ああ、この映画は素晴らしい。何でもないときにふと出て来る台詞が真実なのだ。相手をじっと観察し、相手の存在から愛を実感している証拠だ。その表現に思わず胸がじーんと熱くなる。私はこの映画が好きだ。この映画の脚本が好きだ。心からそう思えた映画だった。

 この映画を観れば、ロバート・ケネディの存在が多くの人たちから支持されていたことがうなずける。しかし、出る杭は打たれてしまった。その事実を変えることはできない。しかし、今のアメリカは、暗殺されたロバート・ケネディの遺志を継いだ未来になっているのだろうか。なってはいない。だからこの映画を、私は現代のアメリカ大統領や日本の首相、政治家たちに観て欲しいと思うのだ。誰が見てもわかることだろう。ロバート・ケネディが政治家という職業を演じているのではないことを。

夏物語

 この映画は、一生にただ一人の人を愛し続けて生涯独身を貫いた、感動的な男女の愛の物語である。実は先日、映画『どろろ』のレビューを書いたばかりだったので、別の映画のレビューを書くのはしばらく控えようと思っていたのだが、Yahoo!映画のユーザーレビューを見ていたら、どうしても自分の感想を書かずにはいられなくなった。

 私はこの映画を観て、切なさと感動が入り混じった涙で顔がぐじゅぐじゅになった。映画を観てこんなに泣いたのは、本当に久しぶりのことだった。それは単に、「泣ける」というレベルのものではない。私は映画館で、声を上げて泣いていたのだ。そして、この映画の中で繰り広げられた男女の愛の物語を「ガンまる日記」の中でも皆さんにご紹介し、広く伝えて行きたいと思っていた。そして、それはもう少し先のことにしようと思っていたのだが・・・・・・。

 映画を観終わったあと、私はこの映画を観た人たちが、私と同じようにその切なさに涙し、この映画を高く評価しているものと思いながら、Yahoo!映画のユーザーレビューを見に行った。私が評価するなら、間違いなく五点満点中の五点だ。きっと他の人たちも同様の評価をつけているに違いない。そう思っていたのだが、あろうことか、総合評価の平均点は三点にも満たない状態だった。私は、予想外の出来事に言葉を失ってしまった。事実を確認しようと、Yahoo!映画のユーザーレビューの詳細に目を通してみると、四点や五点などの高い評価をつけているいる人もいるが、一点などという最低の評価をつけている人がチラホラいるのである。

 最低の評価をつけている人たちのコメントを拝見すると、「どこで泣けるのかわからない」とか「つまんない」とか「くだらない映画」とか「手に負えない陳腐なドラマ」とか、まったくもって、ひどいことが書かれている。もしかして、一人の人がいろいろなYahoo! JapanのIDを取得して、IDを変えながら嫌がらせを書いているのだろうか? 私は本気でそう思ったくらいである。しかし残念なことに、この映画を観て泣けなかった人、つまらないと思った人は実在するようなのだ。自分の顔が涙でぐじゅぐじゅになるくらいの映画を、「どこで泣けるのかわからない」と言われたら、力を入れてレビューを書きたくなるのは当然のことだろう。しかし、この映画を観て何も受け取ることができなかった人たちに向けて、言葉で訴えかけて行くのはもっと難しい。だからせめて、これからこの映画を観ようとしている人たちがこの映画から遠ざかってしまわないように、このレビューを書いておきたい。

 ネタバレにならない程度に映画の内容を少しだけ述べておくと、初老になっても独身を貫き通している大学教授ユン・ソギョンを韓流スターのイ・ビョンホンが演じている。ソギョンは、大学生の夏休みに、仲間たちと田舎までボランティア活動に出掛ける。そこで、スエ演じる図書館で働く女性ジョンインと出会うのだ。この二人は、最初のやりとりからして、ツインソウル的な関わり方をしている。とにかく素直になり切れず、互いに反発ばかりしているのだ。しかし、最初から反発ができるということは、出会った直後から既に反発できるほどの親しさをお互いに感じている証拠である。反発し合いながらも、そこには同時に許しが起こっているのである。スクリーンを通してそれがわかるだけに、既にその時点からじわじわと感動が沸いて来る。そんな二人がやがて互いに深く愛し合うようになるにもかかわらず、時代に翻弄され、引き裂かれて行く。しかし、時代に引き裂かれながらも、決してひと夏だけで終わらせることのない一生の愛へと発展して行く。

 この映画は、ラブシーンが濃厚ではなく、まさしく純愛という名にふさわしい映画であると言えるだろう。だからこそ、二人がしっかりと抱き合うシーンが映えて来る。もしかすると、本当に愛し合っているのではないかと錯覚してしまうほどだ。

 この映画を観て泣けた人と泣けない人、その違いは一体何なのだろうと考えてみた。感動というものは、超音波のように周波数があり、振動が許容する範囲内にいる人しか反応できないのかもしれない。それは、生きているテーマであるとか、過去の経験にもよるのだろう。更に、もしかすると、映画というものは、いや、映画に限らずどんな感動的な出来事も、既に自分の中にあるものしか引き出すことはできないのかもしれない。この映画を観て泣けなかったという感想を読んで、ふとそんなことを思ってしまったのだった。

2007/02/27

どろろ

 『どろろ』が公開されたのは、確か先月の最終土曜日だったはずだ。公開されてから既に三週間近く経っているというのに、レイトショーにしては観客が多かった。私はしばしばレイトショーに足を運んでいるが、平日のレイトショーは、いつも観客がまばらなのである。公開されてから比較的時間が経っているというのに、これだけの人たちがレイトショーに足を運んでいるのだから、かなり人気の高い映画なのだろう。実際、私も存分に楽むことができた。何しろ、本編が始まった直後から、「やっぱりこの映画は夫と一緒に観たかったなあ。できれば夫と一緒にもう一回観たいなあ」などと思い始めていたのだから。映画を観終わってからもう一度観たいと思うならわかるが、たった今、観始めたばかりの映画をもう一度観たいなどと思えるほどの映画にはなかなか巡り合えないものだ。

 ただ、原作の『どろろ』を読んでいたせいか、『どろろ』役の柴咲コウの身長が小さくないのは少々違和感があった。また、『どろろ』が女性であることも最初からわかり過ぎて、意外性がない。それでも、彼女が体当たり演技を見せてくれたので良しとしよう。主人公の百鬼丸は妻夫木聡が演じていた。実際にこの映画を観るまでは、こんなかっこいい俳優さんに、あの暗い百鬼丸の役がこなせるのだろうかと心配だったが、彼は寡黙な百鬼丸の役を見事に演じていたと思う。『春の雪』を観たときにはそれほど感じなかったが、彼の端正な顔立ちと口数の少なそうな性格は、私の好みかも。

 私の最もお気に入りのシーンは、原田芳雄さん演じる百鬼丸の育ての父親が、失われた百鬼丸の身体を少しずつ創造して行くシーンだ。原作があまりにも有名なのでご存知の方も多いと思うが、百鬼丸は、彼の父親の天下を取りたい野望と引き換えに、魔物に身体の四十八箇所を奪われた状態でこの世に生まれて来た。そのため、産みの親に見放されてしまう。川に捨てられた百鬼丸を救出した育ての父親は、百鬼丸の失われた身体の部品を丁寧に創り、まだ赤ん坊の百鬼丸に慎重に継ぎ足して行く。継ぎ足した身体が百鬼丸になじむように、百鬼丸を容器の中で培養するのだが、そのシーンが鉄腕アトムの誕生を強く連想させ、手塚治虫先生の原作ならではの作品に仕上がっている。

 育ての親の死後、百鬼丸は、魔物に奪われた自分の身体の一部を求めて魔物と戦う旅に出る。魔物を倒す度に、百鬼丸の身体の一部が戻って来る。魔物を倒したあとは、百鬼丸のどの身体の一部が戻って来るのかが楽しみで、スクリーンに引き込まれてしまう。このようなアイディアを思いついた手塚治虫先生は天才だと思う。そして、これを見事に映像化された塩田監督も素晴らしい。

 塩田監督のこれまでの作品は、『黄泉がえり』と『この胸いっぱいの愛を』を拝見した。実のところ、『黄泉がえり』にはとても感動したのだが、『この胸いっぱいの愛を』で少々がっかりしてしまっていた。しかし、今回の『どろろ』で大きく巻き返した。原作を読んでいる人は、あのシーンがこのように映像化されているのかという視点で、この映画を十分楽しむことができるだろう。この映画では、少しずつ自分の身体を取り戻して行く百鬼丸が、次第に人間らしさをも取り戻して行くプロセスが見事に描かれている。もちろん、百鬼丸が人間らしさを取り戻すのは、単に自分の身体を取り戻したからだけではない。どろろの存在も大きく関わっていることと思う。

 物語の終わりに差し掛かると、登場人物たちの間に大きな葛藤が起こる。ここに来て私たちは、「因果」という言葉を連想せずにはいられない。百鬼丸とどろろが出会ったのも、因果のためだったのかもしれない。私たちは、そのときそのときで、そのときの自分にぴったりの選択をしている。時には遠回りをしながらも、最終的には自分に納得の行く人生の選択ができるように生きている。そんなことを感じさせてくれる映画だった。だからなのだろうか。登場人物たちの変化が面白い映画でもある。

2007/02/15

トリスタンとイゾルデ

 去年観た映画なのに、掲載していなかったレビュー。

 ウィキペディア:トリスタンとイゾルデによれば、トリスタンとイゾルデの物語は、中世に宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語なのだそうだ。また、この物語を題材にしたワーグナーの楽劇もあるらしい。さて、物語の内容は、『ロミオとジュリエット』のように、深く愛し合っていても一緒にはなれない男女の悲恋の物語となっている。実は、その『ロミオとジュリエット』こそ、シェイクスピアがこの物語を参考にして創作した物語なのだとか。

 現代も残っているのかどうかわからないが、昔は政略結婚と呼ばれるものが存在していた。敵対している国との仲を取り持つために娘を敵国に嫁がせたり、資金援助を請うために娘を資産家に嫁がせたりする時代があったのだ。女性の意志に関係なく、女性が友好的な取引の道具のように扱われていたのである。

 当然、そうした結婚に愛はなく、結婚式の当日までお互いの顔を知らないなどということも多々あったようである。特に娘が美しい場合は、嫁いで来た娘に夫が片思いをする場合もあるようだ。

 トリスタンとイゾルデの場合は、お互いの身分など省みない時期に出会い、激しい恋に落ちる。私は、恋愛映画を観るとき、愛の始まりを見届けるのが好きだ。この二人も、ごく自然に惹かれ合い、やがて結ばれる。相手が自分に好意を持ってくれているかどうかは、お互いにわかるものだ。だから、「ボクと付き合ってください」などとわざわざ言葉にする必要がない。

 しかしこの二人、お互いに敵国の重要人物であり、正々堂々と愛し合える関係ではなかった。そのために、二人はいったん離れ離れになるのだが、やがて最も皮肉な形で再会することになる。

 ここからは多分、意見がいろいろと分かれるところだろう。この映画を不倫の映画として観る人もいらっしゃるかもしれない。しかしそれは、結婚を絶対的な制度として見た場合のことだろうと思う。私は、結婚は制度ではなく、愛し合う男女が自由意思で結ばれるものだと思っている。愛のない政略結婚を正当な結婚だとは思いたくないのだ。そもそも愛のない結婚をすることから間違っている。しかし、だからと言って、イゾルデを愛するマーク王の目を盗んで二人がこそこそ会うのは賛成できない。

 トリスタンは、マーク王との結婚が決まったイゾルデに対し、
「運命を受け入れろ」
と言った。しかし、自分でそのように言ったにもかかわらず、心の中では泣いているのである。何故、泣いているのか。それは、イゾルデが本当に愛しているのが自分だということに気がついているからだと思う。相手が別の人と一緒に過ごすことが喜びにならないのは、相手が愛に包まれていないことがわかっているときだと思う。イゾルデが嫁ぎ先のマーク王のことを愛することができれば、トリスタンもイゾルデのことを影でそっと見守ることができたのではないだろうか。

 それにしても、結婚してから何年も、マーク王はイゾルデに対し、自分が片思いをしていることに気がつかなかったのだとしたら、こちらも悲劇である。敵国に戦争をしかけて、強引に自分の国を大きくして行くような時代だから、イゾルデの中に自分への愛がないことにも気づかなかったのかもしれない。

 この映画の中で引用された詩の中に、
「愛は死をも超える」
というフレーズがあり、何とも心の中に響いた。それは、愛の大切さを詩にしたフレーズの一部だった。輪廻転生を重ねて来た私の中にも同じような想いがあるからだろうか。この詩の内容に従って、もっとも愛に生きようとした二人なのに、このような悲恋になろうとは。

 観方によっては、「愛は何者にも引き裂くことはできない」ということを表現した映画のようにも思える。しかし私には、「愛のない結婚は悲劇を呼ぶ」ということを表現した映画のように思えた。愛に正直に生きることの大切さを逆説的に教えてくれる映画だった。この映画は映像も美しい。特に、戦いに敗れたトリスタンが船に乗せられ、王室の葬儀の流儀で葬られるシーンは格別のものがある。

映画『トリスタンとイゾルデ』公式サイト

書を捨てよ町へ出よう

 寺山修司監督の映画は、二十年ほど前に映画館やビデオで集中的に観ていたことがある。映画館で観たのは『草迷宮』といくつかの短編映画、ビデオで観たのは『さらば箱舟』と『田園に死す』だったと思う。書籍も何冊か読んだ。

 いくつかの映画や書籍から感じ取ったことは、寺山修司監督がこだわり続けているのは、「母」と「時計」なのではないかということだった。今回の作品の中にも、「母」と「時計」は登場している。しかし、他の作品のように、これでもか、これでもかと訴え続けるほどのインパクトを持って登場しているわけではない。『書を捨てよ町へ出よう』では、街のあちらこちらに張られている「どもり」を改善する施術院のポスターが目についた。こうした間接的なアプローチが、いかにも寺山修司監督らしい。

 さて、この映画はストーリーはあるのだが、主人公が頭の中で思い描いたことや関連性を持つ出来事が、まるでホームページのリンクボタンをクリックするかのように、次から次へと別の映像に切り替わる。イメージのシーンにはフィルターがかけられているのか、スクリーンの彩りが異なっている。例えば、主人公を取り巻く通常のストーリーはフルカラーで表現されているのだが、主人公が生活する「家」を描いたシーンには緑のフィルターがかけられている。また、主人公の夢である人力飛行機で空を飛ぼうとしているイメージには、紫のフィルターがかけられている。主人公以外の登場人物が思い描くイメージになると、時にはモノクロ映像になることもある。

 クルクルと切り替わる映像を忠実に追い掛けながら、寺山修司監督の言わんとしていることを理解しようとすると、逆に映画の世界からどんどん取り残されてしまう。取り残されないようにするには、理解しようとして立ち止まらない勇気を持つことが必要かもしれない。

 映像美としては、主人公が連れて行かれた娼婦の部屋が印象的だ。アマチュアの描いた浮世絵かと思えるようなカーテンに、お経の書かれた布団。そんな怪しげな布団の中で、主人公は娼婦に抱かれるのだが、行為の最中に、バックには般若心経が流れ、男のすすり泣く声さえ聞こえている。一体、何のためのお経なのだろう。布団にお経を書いておけば、そのような行為も清められるということなのだろうか。しかし、男のすすり泣く声は? 私は、娼婦とそのような行為をしたくない主人公が、行為の最中に泣いているのだと思っていた。しかし、主人公は泣いてはいなかったのだ。主人公は、娼婦の前では泣かなかったが、心の中では泣いていたのかもしれない。

 それから、後半の部分に登場するバスタブに浸かった若かりし頃の美輪明宏さん。脇の下にうっすらと毛が生えてはいるのだが、もう、美しいの一言に尽きる。今ではすっかり尊い存在となってしまった美輪明宏さんも、かつてはこのような役もこなされていたのである。

 この映画は、一九七一年の作品なのだそうだ。映画を観ながら強く感じるのは、古い映画特有のエネルギッシュな要素があちこちにちりばめられていることである。映画そのものがエネルギッシュというよりも、時代がエネルギッシュだったのかもしれない。例えば、新宿の歩行天国の若者によるパフォーマンス。世の中が便利になった分、人間が怠け者になってしまったのか、現代では感じられないほどの強いエネルギーを感じる。しかし、映画の中の若者たちから強いエネルギーを感じるというのに、全体的に暗いのだ。

 ここで私は、二年ほど前の夏休みに観た青森のねぶた祭りを思い出してみる。青森と言えば、寺山修司監督の出身地である。冬になるとたくさんの雪が積もり、活動を節制することを余技なくされる雪国青森で、「夏がやって来たぞ! 活動できるのは今だ!」と言わんばかりの強いエネルギーが交わされていた。しかし、温暖な四国で育った私からすると、彼らが底力を使って弾けているように見えてしまう。つまり、普段は静かなはずの青年たちが、思い切り活動できる夏に、期間限定で弾けているように見えてしまったのだ。温暖な四国で育った私には、この底力的な強いエネルギーが理解し難かった。

 寺山修司監督の映画にも、ねぶた祭りと同じような強いエネルギーを感じる。そして私は、映画の解釈のために、芋づる式につるつると関連性を持たせてみる。題材にするのは東洋医学だ。東洋医学のベースとなっている陰と陽。それに、動と静の要素を加えてみる。温暖な四国で育った私にとって、エネルギッシュであることは、常に陽+動だった。しかし、青森のエネルギーは、陰+動の組み合わせなのだ。だから、理解し難かったのかもしれない。普段からずっと熱いというよりも、いざというときに強さを見せてくれる。寺山修司監督の映画からは、そんな底力的な強いエネルギーを感じさせてくれた。

2007/02/12

ロスト・イン・トランスレーション

 ずいぶん前にDVDを借りていたのに、この三連休でようやく観ることができた映画である。東京が舞台になっていることだけは知っていたのだが、このような情緒的なストーリーが展開されるとは驚きだった。

 超多忙なカメラマンである夫の仕事のために東京にやって来たスカーレット・ヨハンソン演じるシャーロットと、ビル・マーレイ演じるかつての映画スター、ボブ・ハリスが、宿泊先の東京のホテルで出会う。二人とも、夫婦関係が今一つしっくり来ていないところと、滞在中の東京に今一つ溶け込めないでいるという共通点から、短時間のうちに意気投合する。感性の似た者同士は、それほど多くの言葉を必要とせずにわかり合えるといったところだろうか。

 この映画の中では、外国人から観た日本が描写されている。例えば、浴室のシャワーが外国人にとってはひどく低いところ、やたらと礼をするところ、LとRの発音が区別できていないところ、カラオケ好きなところ、ホテルの室内にスリッパが用意されているところなどである。そのどれもが、日本の長所として表現されているものではない。

 シャーロットは、夫の仕事については来たものの、いつも時間を持て余している。しかも、時差をずっと引きずっているのか、夜になってもぐっすり眠ることができない。また、東京のホテルで偶然出会った夫の知り合いであるにぎやかな女優のハイテンポな話題にもついて行くことができないでいる。仕事で東京にやって来たボブもまた、日本人の乗りに今一つついて行けない。自分のペースを奪われるような、自分らしさをうまく表現できていないような、そんな居心地の悪さを感じているのがわかる。テレビをつけても言葉がわからないし、時笑いの乗りも違う。更には、ボブが東京にいることなどおかまいなしにコミュニケーションを取りたがるアメリカの妻がいる。彼女はボブに対し、「日本はどう?」などと尋ねるでもなく、常に自分自身の身の回りの出来事に専念している。だから、お互いの孤独を埋め合わせるかのように、二人はごく自然に引き合うのだった。ただ、引き合うと言っても、決して男女の仲に発展するわけではなく、男女の友情が静かに育って行く。二人がベッドで横になって話をするシーンは特にいい。機関銃のようにしゃべり立てるわけでもなく、お互いが自分と合わない東京で理解者を見つけて安心し切っているのを感じる。

 しかし、このように育んで来た友情も、ボブの帰国の決定により、最後のときを迎える。決して言葉にはしないのだが、お互い、離れたがっていないのが見て取れる。二人の友情にけいじめをつけるのに、何か決定的な瞬間が欲しい。そう思っていたから、ロビーでシャーロットと別れのあいさつをしたあとに、ボブは上の空だったのだ。

 別れのあいさつをしたはずの二人が再びすぐに東京の町で出会い、一目もはばからず固く抱擁し合うのだが、あの抱擁は、帰国直前にボブが女性を部屋に連れ込んだからこそ成り立っているのかもしれない。もしもその出来事がなければ、二人はずっと男女の友達のままだったのではないだろうか。

 旅先で肉体関係を結んでも、一時的であとに残らない関係と、肉体関係を結ばなくても、永遠に繋がるかのような固い抱擁。どんな人間関係も、双方向であるべきなのだ。この監督は、そういうことを表現したかったのではないだろうか。何故なら、この映画の中で描かれているあの抱擁以外の関係はすべて、一方通行だからだ。

 私は、パートナーを裏切る映画があまり好きではないが、この映画はいやな印象を受けなかった。それは、あの抱擁の中に二人の感情のすべてが集約されているからかもしれない。

2007/02/11

エラゴン

 こちらも年末に観ておきながら、まだレビューを書いていなかった作品。ハリーポッターを超えるという宣伝文句につられて観に行ったのだが、決してこの作品がハリーポッターを超えるようなことはないと思う。

 エラゴンというのは、ドラゴンの名前ではなく、ドラゴンに乗るドラゴンライダーの少年の名前だった。ある日エラゴンは、ドラゴンの卵とは知らずに青い石のようなものを森で拾う。エラゴンはつまり、ドラゴンライダーとしてドラゴンに選ばれたのである。

 やがて卵が孵り、ドラゴンが生まれるのだが、生まれたばかりの小さなドラゴンは無邪気でてともかわいい。意外だったのは、ドラゴンが女性だったことだ。ドラゴンにも性別はあったのだ。やがてエラゴンとドラゴンはペアを組み、悪と戦うことになる。

 この映画の中で気になったのは、かつてドラゴンライダーだったというブロムだ。自分の過去をあまり話そうとしない彼は、ドラゴンライダーになりたてのエラゴンに、自分の知っていることをすべて教え込む。ブロムのおかげで、エラゴンは立派なドラゴンライダーに成長して行くのである。

 この映画は三部作として上映されるらしい。今回は、その第一作目となったわけだが、第二作目が楽しみになるほどの感覚はない。この感覚は、そう、ロードオブザリングを観たときの感覚に似ている。レディースディであれば観てもいいかな、くらいの感覚である。

2007/02/08

シャーロットのおくりもの

 まだレビューを書いていなかったが、年末に観た映画である。映画のチラシには、女の子と仔豚の写真が掲載されているので、私はおそらく、仔豚の名前がシャーロットなのだろうと勝手に想像していた。ところが、実際に映画を観てみると、違うのである。しかも、この映画の中では、女の子はそれほど重要な役割を持っていない。

 映画の中に登場するシャーロットとは、農場の中に居るクモである。いわばこの映画は、クモのシャーロットと仔豚のウィルバーとのあたたかい友情の物語なのである。真の友情とは何かということについて深く考えさせてくれる映画であった。それはずばり、友情を結ぼうとしている相手に対し、偏見を持たないで接することだ。

 農場でクモのシャーロットと友情を結ぶことができたのは、仔豚のウィルバーだけだった。それ以外の動物たちはみんな、シャーロットがクモであることに対して偏見を持ち、シャーロットと哲学的な対話を楽しむことができなかった。対話とは、単におしゃべりをすることではなく、関わりの中から真実を見出すことなのではないか。真実を見出すことで、少なくとも、対話に産物がある。そんなことも考えさせてくれる映画であった。偏見を持たなかったウィルバーは、シャーロットから素晴らしいプレゼントを受け取るのである。

 CGなのだろうが、クモのシャーロットの表情がとてもいい。シャーロットがこの世での役割を終えて子孫を残すシーンはとても印象的だった。生まれた子供を育てずに、親がこの世を去って行く仕組みが出来上がっているのは、クモの世界では子孫を残すことが目的だからなのだろう。親がいなくても寂しくないように、たくさんの子供たちを産む。人間社会とは異なる子孫の残し方だ。

 この映画を観ると、クモってこんなに魅力的だったっけ? 仔豚ってこんなにかわいかったっけ? と思えて来る。他の動物たちが会話しているように細工されているところも十分楽しめる。おそらく、子供さんと一緒に観られるように、製作された映画なのだろう。大人が観ると、忘れていたものを思い出させてくれる、そんな映画だった。

2007/02/02

それでもボクはやってない

 この映画を観たとき、梅田の大きな映画館がほぼ満員状態だった。映画サイトのユーザーレビューに目を通してみても、ほとんどの方たちが満点の評価を付けていた。それだけ注目度、評価の高い映画であると言える。

 タイトルからも想像されるように、この映画は裁判を扱った映画である。実際は、痴漢などしていないのに、電車の中で女子中学生に対し、痴漢行為を働いたと嫌疑をかけられた主人公が、裁判で自分は絶対に痴漢行為をしていないと懸命に主張し、とことん戦うストーリーである。

 一言で言うと、この映画は、被害者主体の日本の裁判の盲点をついている。ストーリーなどの詳細については、周防正行監督最新作『それでもボクはやってない』公式サイトをご参照あれ。

 この映画を観ると、多くの人たちは次のように思うのではないだろうか。裁判は本当に公平なのか。これまで有罪の判決を下された人たちは、本当に有罪だったのだろうかと。固定観念の領域から出ない警察の取調べ方法や、決め付けの態度を取るお役人たちの態度に腹が立って来る。形式やルールにこだわり、真実を見極めようとしないその保守的な姿に。

 仕事に対する安定は、変化を望まない体質を作り上げる。できれば、仕事で特殊処理などしたくない。一度捕まえた犯人が、どうか真犯人であって欲しい。「それでもボクはやってない」と主張されようが、真犯人を探し出す労力を惜しんでいるかのように見える。つまり、仕事が楽なほうへ楽なほうへと逃げているように見えるのだ。その人たちの判断で、犯人とされた人の人生が大きく変わるというのに、とにかく自分に与えられた仕事をこなしてさえいればいい。作業を右から左に流すだけ。そんな雰囲気さえもうかがえる。仕事が安定しない一般の企業のほうが、もっと何かを求めて前進しているように見えてしまう。そう、「求めて勝ち取る」という姿勢が感じられないのだ。

 現在の私の仕事も、長い間、発売され続けて来たアプリケーションの開発業務である。そこにはある種の安定があり、仕事のやり方を変えて行こうとか、古いプログラムに手を入れて、もっと使い勝手の良いアプリケーションにしようという動きはない。新たな方法や手段を受け入れるよりも、現状を維持することに必死になっているのだ。だから、現在行っているWindows Vista対応の作業のように、新しいOSに対応するなど、現状を維持することに対する労力は惜しまない。ただ、私の業務は、現状を維持することが、誰かの人生を大きく変えたりはしないというだけのことである。

 周防監督は、裁判についてとことん研究し、この映画を製作されたと聞いている。この映画を観ると、世の中に対し、周防監督が映画という表現方法で必死に訴えかけているものがひしひしと伝わって来る。間違いなく、映画という表現方法を知っている人が映画監督になったのだと感じる。そういう意味で、この映画は、社会に対して大きな波紋を投げかけるだけの影響力を持っていると思う。

 しかし、実際に真実を見極めるのはとても難しい。中には、無実を主張し続ける極悪人もいるだろう。警察に決め付けられて、やってもいない罪をしぶしぶ認める人もいるだろう。この映画のように、本当は罪を犯してもいないのに、罪を犯したとされる人もいるだろう。裁判では、そういう人たちが入り混じって裁かれる。そのような状況の中で、裁判官が極悪人に騙されることも屈辱であり、警察が検挙した被告を無罪と判断することも、国家を敵に回すようで勇気が要る。となると、どうしても保守的な裁判になってしまう。

 本当に裁くことができるのは誰なのか。そのことが、この映画の最後の部分で述べられている。とにかく、社会に対し、大きな問題提起をした作品である。