映画や舞台などを鑑賞した感想文をアップして行きます。

2006/12/30

愛の流刑地

  この映画の原作者は人気作家の渡辺淳一さんである。原作となった小説は、日本経済新聞に連載されていたらしい。私はその頃を知らないのだが、日本中に賛否両論を巻き起こしたとか。かつての『失楽園』と言い、渡辺淳一さんは、次第に逃げ場を失くしてしまう恋愛を描写するのがお好きなようである。若い頃、渡辺淳一さん原作の映画『化身』を見て、渡辺淳一さんの描く愛の世界に引きずり込まれてしまったものだったが、私自身の中にある愛が育って行くにつれて、逃げ道を失くしてしまう愛の描写を次第に好まなくなってしまった。だからこの映画も、批判的な姿勢で鑑賞し始めたのだった。

 予告編程度に簡単なストーリーをご紹介しておくと、妻と別居中の作家である菊治が、菊治のファンだという人妻の冬香との情事の最中に、冬香に殺して欲しいとせがまれて絞殺してしまうというものである。

 どういうわけか、この映画の宣伝文句は「純愛」である。しかし私には、純愛どころか、愛と欲望がごっちゃになっているように思えた。例えば、菊治が初めて冬香にキスするシーンがある。冬香の同意も求めずにいきなりキスするのは強引だ。更には、冬香と初めて肉体的な関係を結ぶシーンも、菊治の一方的な誘いから始まる。菊治自身は妻と別居中の身であるにしても、人妻である冬香にキスをしたり、肉体的な関係を迫ることによって、冬香を苦しい立場に立たせてしまうことが果たして愛だと言えるのだろうか。私には欲望に見える。

 映画の中で、男女の肉体的な愛の描写を見るとき、いつもがっかりしてしまうことがある。それは、セックスが個々の喜びとしてしか表現されていないことである。愛し合う男女は個々の喜びに浸らず、互いに見つめ合い、微笑み合いながら結び付くのではないだろうか。そして、お互いに自分の持っているものすべてを相手に与えようとする。そうすることによって、肉体だけでなく、心と心をも通い合わせることができる。心と心を通い合わせた与え合うセックスは、個々の喜びにはならず、二人の喜びになる。心と心を通い合わせないセックスは、精神的な繋がりを持たず、肉体的な繋がりしか持たない。だから、客観的に見ると、肉体的な快楽に溺れているように見えてしまう。この映画の中で描写されているのは、個々の喜びに浸るセックスだと思う。互いに与え合うセックスではなく、求め合うセックスとして描かれている。

 恋愛には、二つの形があると言っていい。一つは、広がりを持つ恋愛で、もう一つは、行き場を失くした恋愛である。広がりを持つ恋愛は、二人が関わり合うことによって、人間関係がどんどん広がって行く。しかし、行き場を失くした恋愛は、世界がどんどん狭くなり、やがて、死という形でゴールを迎える。

 映画の中に、「三人のお子さんの父親になるという選択肢はなかったのですか?」という問い掛けがある。これがまさしく広がりを持つ恋愛の典型だと思う。二人の関係を公にし、相手の環境をも含有して行く展開だ。しかし、二人が選んだのは、世界を狭くする方法だった。だから、相手を想う気持ちが強くなれば強くなるほど、世間からどんどん離れ、最終的には死を選ぶことになったのだと思う。

 冬香の夫役として、同じ大学の同級生だった仲村トオルくんが出ていた。大学では一度も顔を合わせたことはなかったが、彼とは同じ文学部だった。だから、私は勝手にトオルくんと呼んでいる。そのトオルくんと冬香もまた、心を通い合わせた夫婦ではなかったようだ。トオルくんは仕事が忙しい役柄で、自分自身の問題に精一杯であるように見えた。つまり、妻である冬香のことを心から愛しているようには見えなかった。

 考えさせられたのは、夫婦関係がそういう状況にある中で、冬香が菊治と激しい恋に落ちてしまい、女としての肉体の喜びを知ったということである。冬香がそこから抜け出せなかったことも、理解できないわけではない。冬香にとっては、それだけで満足だった。だから、いつ死んでもいいと思っていた。そういう話なのである。

 私はここで、パトリス・ルコント監督の映画『髪結いの亭主』を思い出した。結婚して幸せの絶頂にある妻が、ある日突然、自殺するという話である。私は、その結末に納得が行かなかった。しかし、芸術映画を支持する人たちは、「もっとも幸せなときに死を選んだ妻の気持ちがわかる、美しい映画だ」と言っていた。『愛の流刑地』が表現したかったことも、つまるところは『髪結いの亭主』と同じようなことなのかもしれない。しかし、『髪結いの亭主』は人間の感情を描かずに、芸術的でさらっとした展開で締めくくられているが、『愛の流刑地』では、人間の感情が表現されている。

 この映画を観て、何を愛だと思うかは、人それぞれなのだと思った。映画の中で、菊治はしきりに冬香を愛していたことを主張している。強い感情や激しい感情が必ずしも愛だとは限らないはずなのに。おそらく、愛には無限に広がって行く方向と、袋小路になってしまう方向があるのだ。二人は袋小路に迷い込んでしまった。しかし、少なくとも冬香にとってはそれで満足だった。この映画は、そういうことを表現したかった映画なのだと思う。

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