どろろ
『どろろ』が公開されたのは、確か先月の最終土曜日だったはずだ。公開されてから既に三週間近く経っているというのに、レイトショーにしては観客が多かった。私はしばしばレイトショーに足を運んでいるが、平日のレイトショーは、いつも観客がまばらなのである。公開されてから比較的時間が経っているというのに、これだけの人たちがレイトショーに足を運んでいるのだから、かなり人気の高い映画なのだろう。実際、私も存分に楽むことができた。何しろ、本編が始まった直後から、「やっぱりこの映画は夫と一緒に観たかったなあ。できれば夫と一緒にもう一回観たいなあ」などと思い始めていたのだから。映画を観終わってからもう一度観たいと思うならわかるが、たった今、観始めたばかりの映画をもう一度観たいなどと思えるほどの映画にはなかなか巡り合えないものだ。
ただ、原作の『どろろ』を読んでいたせいか、『どろろ』役の柴咲コウの身長が小さくないのは少々違和感があった。また、『どろろ』が女性であることも最初からわかり過ぎて、意外性がない。それでも、彼女が体当たり演技を見せてくれたので良しとしよう。主人公の百鬼丸は妻夫木聡が演じていた。実際にこの映画を観るまでは、こんなかっこいい俳優さんに、あの暗い百鬼丸の役がこなせるのだろうかと心配だったが、彼は寡黙な百鬼丸の役を見事に演じていたと思う。『春の雪』を観たときにはそれほど感じなかったが、彼の端正な顔立ちと口数の少なそうな性格は、私の好みかも。
私の最もお気に入りのシーンは、原田芳雄さん演じる百鬼丸の育ての父親が、失われた百鬼丸の身体を少しずつ創造して行くシーンだ。原作があまりにも有名なのでご存知の方も多いと思うが、百鬼丸は、彼の父親の天下を取りたい野望と引き換えに、魔物に身体の四十八箇所を奪われた状態でこの世に生まれて来た。そのため、産みの親に見放されてしまう。川に捨てられた百鬼丸を救出した育ての父親は、百鬼丸の失われた身体の部品を丁寧に創り、まだ赤ん坊の百鬼丸に慎重に継ぎ足して行く。継ぎ足した身体が百鬼丸になじむように、百鬼丸を容器の中で培養するのだが、そのシーンが鉄腕アトムの誕生を強く連想させ、手塚治虫先生の原作ならではの作品に仕上がっている。
育ての親の死後、百鬼丸は、魔物に奪われた自分の身体の一部を求めて魔物と戦う旅に出る。魔物を倒す度に、百鬼丸の身体の一部が戻って来る。魔物を倒したあとは、百鬼丸のどの身体の一部が戻って来るのかが楽しみで、スクリーンに引き込まれてしまう。このようなアイディアを思いついた手塚治虫先生は天才だと思う。そして、これを見事に映像化された塩田監督も素晴らしい。
塩田監督のこれまでの作品は、『黄泉がえり』と『この胸いっぱいの愛を』を拝見した。実のところ、『黄泉がえり』にはとても感動したのだが、『この胸いっぱいの愛を』で少々がっかりしてしまっていた。しかし、今回の『どろろ』で大きく巻き返した。原作を読んでいる人は、あのシーンがこのように映像化されているのかという視点で、この映画を十分楽しむことができるだろう。この映画では、少しずつ自分の身体を取り戻して行く百鬼丸が、次第に人間らしさをも取り戻して行くプロセスが見事に描かれている。もちろん、百鬼丸が人間らしさを取り戻すのは、単に自分の身体を取り戻したからだけではない。どろろの存在も大きく関わっていることと思う。
物語の終わりに差し掛かると、登場人物たちの間に大きな葛藤が起こる。ここに来て私たちは、「因果」という言葉を連想せずにはいられない。百鬼丸とどろろが出会ったのも、因果のためだったのかもしれない。私たちは、そのときそのときで、そのときの自分にぴったりの選択をしている。時には遠回りをしながらも、最終的には自分に納得の行く人生の選択ができるように生きている。そんなことを感じさせてくれる映画だった。だからなのだろうか。登場人物たちの変化が面白い映画でもある。
ただ、原作の『どろろ』を読んでいたせいか、『どろろ』役の柴咲コウの身長が小さくないのは少々違和感があった。また、『どろろ』が女性であることも最初からわかり過ぎて、意外性がない。それでも、彼女が体当たり演技を見せてくれたので良しとしよう。主人公の百鬼丸は妻夫木聡が演じていた。実際にこの映画を観るまでは、こんなかっこいい俳優さんに、あの暗い百鬼丸の役がこなせるのだろうかと心配だったが、彼は寡黙な百鬼丸の役を見事に演じていたと思う。『春の雪』を観たときにはそれほど感じなかったが、彼の端正な顔立ちと口数の少なそうな性格は、私の好みかも。
私の最もお気に入りのシーンは、原田芳雄さん演じる百鬼丸の育ての父親が、失われた百鬼丸の身体を少しずつ創造して行くシーンだ。原作があまりにも有名なのでご存知の方も多いと思うが、百鬼丸は、彼の父親の天下を取りたい野望と引き換えに、魔物に身体の四十八箇所を奪われた状態でこの世に生まれて来た。そのため、産みの親に見放されてしまう。川に捨てられた百鬼丸を救出した育ての父親は、百鬼丸の失われた身体の部品を丁寧に創り、まだ赤ん坊の百鬼丸に慎重に継ぎ足して行く。継ぎ足した身体が百鬼丸になじむように、百鬼丸を容器の中で培養するのだが、そのシーンが鉄腕アトムの誕生を強く連想させ、手塚治虫先生の原作ならではの作品に仕上がっている。
育ての親の死後、百鬼丸は、魔物に奪われた自分の身体の一部を求めて魔物と戦う旅に出る。魔物を倒す度に、百鬼丸の身体の一部が戻って来る。魔物を倒したあとは、百鬼丸のどの身体の一部が戻って来るのかが楽しみで、スクリーンに引き込まれてしまう。このようなアイディアを思いついた手塚治虫先生は天才だと思う。そして、これを見事に映像化された塩田監督も素晴らしい。
塩田監督のこれまでの作品は、『黄泉がえり』と『この胸いっぱいの愛を』を拝見した。実のところ、『黄泉がえり』にはとても感動したのだが、『この胸いっぱいの愛を』で少々がっかりしてしまっていた。しかし、今回の『どろろ』で大きく巻き返した。原作を読んでいる人は、あのシーンがこのように映像化されているのかという視点で、この映画を十分楽しむことができるだろう。この映画では、少しずつ自分の身体を取り戻して行く百鬼丸が、次第に人間らしさをも取り戻して行くプロセスが見事に描かれている。もちろん、百鬼丸が人間らしさを取り戻すのは、単に自分の身体を取り戻したからだけではない。どろろの存在も大きく関わっていることと思う。
物語の終わりに差し掛かると、登場人物たちの間に大きな葛藤が起こる。ここに来て私たちは、「因果」という言葉を連想せずにはいられない。百鬼丸とどろろが出会ったのも、因果のためだったのかもしれない。私たちは、そのときそのときで、そのときの自分にぴったりの選択をしている。時には遠回りをしながらも、最終的には自分に納得の行く人生の選択ができるように生きている。そんなことを感じさせてくれる映画だった。だからなのだろうか。登場人物たちの変化が面白い映画でもある。


0 Comments:
コメントを投稿
Links to this post:
リンクを作成